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SCOT「演劇人のための鈴木教室」

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◎雑感:鈴木教室に参加してみた
 危口統之

 昨年12月、劇団SCOTによる「吉祥寺シアター公演と演劇人のための鈴木教室」が行われました。この鈴木教室とは「演出家・鈴木忠志が、将来のリーダーを目指す若い演劇人のために、『シンデレラ』の舞台稽古を見せながら、演出論、演技論について受講者と対話する企画」というもの。さらに今年2月にはSCOTの本拠地、富山県利賀村でその続きが行われました。そこに参加した、悪魔のしるし主宰・危口統之さんの報告記です。(編集部)

 ネットで開催の報を知り気になってはいたが最終的には友人からの勧めがダメ押しとなって参加することになったのが去年の師走で、すっかり時間が経ってしまったせいで、このときの自分が何を考えていたのかはもう思い出せない。何も考えていなかったのかもしれない。今となってはただ、参加したという事実があるのみである。吉祥寺シアターでの一連のレクチャーを終えたあと懇親会の場でいろんな人から「参加してよかったか」と訊かれ、そのときは勿論と答えたが、別に良い悪いで判断することでもないと思う。ところで藤子不二雄A氏はかつて大山倍達のもとで空手を学んだこともあったそうだ。

 参加に先立って提出した応募動機に私は以下のように書き込んだ。ちょっと堅苦しい気もするが、それでも本心から出た言葉だと思う。よく知りもしないのにもかかわらず演劇ができてしまうことに私はずっと戸惑っている。

 これまで私は、演劇とは何かと考えることもなく、ただ持ち得るもの、知り得るものだけを用いてバラック小屋のごとき貧相な作品を積み上げてきました。しかし世には力強い様式をたたえた神殿宮殿の歴史もあると聞きます。それらを知りてなお自分はバラックを建て続けるのか。本教室での経験を、自らのあとさきを見定める材料のひとつとしたいと思います。

 用意された時間のほとんどは鈴木忠志の話を聴くことのみに費やされた。こちらから質問することもできたが、ひとつ問えば彼の口からは千言万語が立て板に水のごとく溢れでてき、あっという間に十分二十分と時間が経ってしまうのだった。私自身訊きたいことがないでもなかったが、他のひとの質問に応えて滔々と語る鈴木忠志の姿を見ているうちに、質問する気が失せていくのだった。期間中の三日間ずっとそんな感じだった。
 私は何かをおそれたり、或いは疑問が解消したから質問をしなかったのではない。今でも訊きたいことがないわけじゃない。ただ、それを直接本人にぶつける気がどこかの時点で、もしかしたら教室が始まってからかなり初期の段階で、薄まっていったのだ。

 どんな質問をしても、まるで水栓をひねれば即座にお湯が流れ出すシャワーのようにあっけなく、勢いよく、とめどなく答えだす鈴木忠志を前にして、私が何を問うたところでそれは単にシャワーを浴びるだけの話であって、結局はその状況の追認にしかならない。安定した場を切り裂く向こう見ずな言動は、青二才に許された権利のひとつだが、この類いの、事故を装った蛮行もどうやら通用しそうにない。
 そのことに気づいたせいで、私は次の一手を指しあぐねていたのだと思う。とはいえ、これは虚しさというのとはまた違う不思議な感覚だった。次第に私は、温泉につかっているようないい気分になり、そのままのぼせるにまかせた。いい湯だった。

【写真は「演劇人のための鈴木教室」から。上は「シンデレラ」の舞台稽古、下は鈴木忠志さんのレクチャー。提供=SCOT 禁無断転載】

 そこで思い出したのだが、この企画に与えられた名である。「演劇人のための鈴木教室」、迂闊にも見過ごしていたが、これは異様な名前だ。「演劇教室」でも「演劇人教室」でもなく「鈴木教室」なのだ。揚げ足取りのように聞こえるかもしれないが、私はここに企画者サイドの無意識の、或いは、もしかしたら意識的な欲望の発露を見る気がする。なんならもう「鈴木温泉」「鈴湯」でもいい。そんな企画だったのだ。

 そして私は、ごく素朴にいって鈴木忠志という人物に心酔したのだと思う。などと書くと、なにやら皮肉めいた言い草だと誤解されそうだがそうではない。私は彼という人物が好きだ。それはSCOTの作品を好きになったとか、彼の思想に感化されたというのとはまた違う。そういったことを抜きにして、あるひとりの人間が、自分を自分で鍛え、精製していった果てに、高純度の結晶のような状態にたどり着いてしまった、そのことに感銘を受けたのだった。
 鈴木忠志は、いうなれば、砂糖やコカインのような精製物として、私の眼には映った。どちらもそのままでは自然界には存在しない極めて人工的なもの、快楽をもたらす物質を抽出し結晶化させたものだ。それはまるで藝術作品の隠喩のようにも思えた。ここにいては危険だとアラームが鳴ったが、だからこそもうちょっと吸い込んでみようという気にもなる。

 翌年二月、利賀で延長戦があるというので、引き続き参加することに決めた。

 そうしてできたひと月ほどのインターバルのあいだ、倉敷の実家に帰省してごろごろしながら、自分があの場で見たり聞いたりしたことについてぼんやりと考えていた。
 ところで、このちょうど一年前、私は福島県のいわきにいた。飴屋法水演出作品『ブルーシート』を観るためだ。判断はいまだに保留しているのだが、だからこそずっと心に残っている作品でもある。それを思い出して、次第に私は鈴木忠志と飴屋法水というふたりの演出家の仕事を対置して考えるようになっていった。そうすると何となくいろんなことが掴める気がしたからだ。
 私がいつまで舞台に関わり続けることができるのかは皆目見当もつかないが、このふたりの先達を仰ぎみて、さてどちらに向かおうかと(あるいは全く違う方向を見いだせるか)考えたいという気持ちもある。そういえば昨年の夏に飴屋が大阪で発表した作品の題名も『教室』だった。

 ところで鈴木によると、俳優が舞台に立ち大勢の観衆にアピールするためには「動物的なエネルギー」が必要だという。足腰から横隔膜に至るまで身体を意識的に制御する技術が俳優にとっては重要であり、これを鍛えるため編み出されたのがかのメソッドであると。
 言い換えれば、鈴木にとって舞台上の身体は日常的なそれの延長線上にはなく、人為的な操作によって作り上げられる。ここで俳優の身体は、絵画において色彩の定着を担う絵具だったり、正しく奏でればそれに応じて音の出る楽器のようなものだ。自明のことだが、これらは自然の素材から幾多の工程を経て人為的に作られる工業製品である。
 私がSCOTの俳優の演技を目の当たりにして連想するのも、高度な操作を経て抽出された機械だ。そして、いっけん正反対のようにも思えるが、「動物」であることと「機械」であることは決して矛盾しない。どちらも人間からすれば目的にひたすら忠実な性能性質を備えたつつがない存在であり、そう捉える限りにおいて美しい。言い換えれば鈴木にとって美しさとは、あくまでも合目的性にあり、それ以外の要素は積極的に落としていくべきノイズとしてある。

 もともと絵を参考にして藝術について考えることの多い私としては、これはかなりの程度納得できる考え方だ。単なる物質(絵具)が人間や風景などに見えてしまうことが絵画の面白さであり、逆にいえば絵は絵でしかないと言い切れるまでにはそれなりの時間を要した。
 ところが演劇の場合、人間(の身体)で人間を描写せねばならない。この癒着の回避を優先するなら人形劇や、或いは人ならざるものを象ることこそが演劇の本道になるし、事実、私自身は常々そう考えている。だから人間の体を人形=機械化していく鈴木演出は全く正しいし、ゆえにこのとき用いられる「動物的」なる言い回しはある種の比喩表現でありスポーツ医学などの概念でもじゅうぶんに説明可能なものではないかと推測する。ただし響きとして生硬な医学用語よりも「動物」のほうが通りがいい。そしてその通りのよさはとても大事だと思う。

 しかし飴屋にとっては人間もまた文字通り動物である。人といってもそれは単に言葉を話すだけの動物にすぎない(むろんだからこそ言葉は重要なファクターとなるのだが)。種が何であれ、ある生き物がそこに在ることに対する驚きを、存在に躓き続ける態度を飴屋法水は隠そうとしない。そして、ともすれば人間(や、それとほぼ同義語であるところの藝術)を上位に置きたがる私たちの性根を脅かすようなあられもない試みをいきなり提示してくる。
 グラウンドに設えた舞台に現れたいわきの高校生たちが災害について語るのを観て、私は率直に、えげつないと思った。メソッドによって鍛えられた身体ではなく、偶発的にこの街に生まれ落ち、そこで育った身体にそれを語らせることが、もしかしたらそれは当事者性が取り沙汰される今という時代だけかもしれないが、とてつもなく有効であるのが理解できるからこそドン引きしたのだった。

 飴屋は「演劇用」に鍛えられた身体を避ける。なぜだろうか。ここで「特権的肉体論」などを引くことができれば話はぐっとわかりやすく且つ知的なものになりそうなのだが、あいにく私はその文章を読んだことがない。そのかわり思い出すのが、とあるワークショップで発せられたという飴屋の発言だ。私自身はその場にはおらず後から友人から伝え聞いた話なので細かいところは違っているかもしれないが、だいたい以下の様なことを彼は述べたという。

 「動物園に動物がいるでしょう」「あれ、みんな発狂してるんですよ」

 論理ではなく連想や比喩でしか物事を捉えられない思考の残念さが露見することになるのだが、この「狂」の一字に相対したとき、私の脳裏には人工的精製物=藝術たらんとする鈴木忠志の仕事のことが浮かんでくる。そして誰が言ったかは思い出せないが、「狂気とは理性の欠如ではなく、それ以外の全ての欠如だ」というフレーズのことも。
 教室開催中、私はずっと鈴木のことを「キング・オブ・マトモ」「マトモ王」などと(もちろん本人の居ないところで)勝手に呼んでいたのだが、そのマトモさとは正しく人工的=反自然的=芸術的であることだし、つまり狂っているということでもある。そして飴屋はそのマトモさに背をそむけ、ただひたすらあられもなくあらんとする。

 本人の意志によって得たのではない特徴、たとえば人種、母語、出身地、親の職業、家族形態、そんなものを飴屋は容赦なく劇の中心装置として採り上げる。その手法はほとんど差別スレスレで、戸板一枚隔てた向こうは確実に地獄だ。
 飴屋作品出演者(≠俳優)の開陳する圧倒的な事実性を前にして私は常に立ちすくむ。ただし、立ち尽くすしかない自分の無力さを隠蔽せんがための感動には陥らないぞ、とグッと踏ん張る。その力みが彼の仕事に触れる観客であるところの私の愉しみなのかもしれないが、今のところまだよくわからない。いっそ素直に感動すればいいじゃないかとも思いつつ、まだ安心して身を委ねることが出来ない。そういった意味では「鈴湯」には浸かれても、「飴湯」には警戒心がある。

 しかし同時に、「しょせん演劇じゃないか」とも思う。飴屋がいかに本当らしくそれらしく事実性をアピールしようとも、実のところ嘘かもしれない。原則的に観客は、舞台上で起こること話されることは事前に用意された作りものだと捉えるしかないわけだし、むしろそういった作法に従うのが品のいい観客だとも思う。もし彼らが福島の生まれ育ちではなく徳島や北海道からこっそりと集められた高校生だったら……そんな想像をすることは可能だ。しかしその想像には罪悪感がつきまとう。

 そうこうしているうちに正月も過ぎ節分となり、利賀村に向かう日が迫る。私は倉敷から山陽本線を伝い京都に出て、そこから北陸本線で越中へと向かう。ただしこれを書いているのは四月十五日、つまり岸田賞授賞式典の翌日でもある。冠雪した比叡山の雄姿を車窓から望みながら、昨夜のあれはなんだったのかと考えることも文章の中でならできる。

 授賞式典という、つつがなさに支配されきった空間の、まさに式典が式典であるために皆が守ろうとする約束事を、飴屋はひとつひとつ丁寧に取り除いていった。コレ要らない、アレも要らない、ソレ無視していい、そうしてできた廃墟のようなあられもない様相を前に、式典出席者全員が、私たちだって端からそんなお約束など守る気は無かったよと笑顔を見せることで飴屋の手つきを肯定する。会場となった日本出版クラブ会館のスタッフだけが当然のように不快さを露わにしつつ事後処理に当たっている。彼は飴屋が自ら傷つけた身体から流れ出る血だ。特急列車サンダーバードは時刻通りに到着し、私は高山本線に乗り換える。

 越中八尾で利賀行きのバスを待つあいだ、あたりを散策した。地元のお鎮守さんに参詣し、名刹として名高い聞名寺にも参拝する。小さく静かな街だが民家一軒一軒が工夫をこらした雪対策を講じており、温暖な瀬戸内に生まれ育った自分にとっては目にするものすべてが面白く感じられる。これらのうちの数軒をいきなり倉敷の美観地区や横浜の中華街に移築したらどんな効果をもたらすのだろうと多少の罪悪感を抱えながら夢想することもできなくはない。

 事物は去勢されてはじめて作品の構成要素足りえるが、飴屋作品に登場する身体はどうだろうか。そこでいつも考えこんでしまう。あれは活造りとか踊り食いのようなものじゃないかと思うこともある。もしくは、ケージ(=舞台空間というよりは演劇という制度そのもの)に閉じ込められた身体を野に放つような行為として飴屋は演出を捉えているのかもしれない。あの授賞式を経験した後はそういう見方も可能だと気づく。

 背丈以上に積もった雪の壁に挟まれながらバスはゆるゆると山道を走り続け、だいたい一時間ほどして利賀村に着いた。出迎えてくれたスタッフに誘導されるまま施設の見学がスタートする。
 しかしこれはぜんたい何なのだろうか。合掌造りの古民家を改造した劇場、野外劇場、食事や会合のために建てられたレストランのような建物、アーカイブ機能を備えた集会所、そして大きな宿泊施設。否が応にも昨夜の飴屋の手つきが思い起こされる。アレも要らないコレも要らないと設えを解体していく飴屋に対し、鈴木はアレが要るコレだって要る、と信念の命ずるままに増設しこの王国を造り上げた。飴屋は壊すことでそれが既にして演劇だ(った)と証明し、鈴木は何もないところから演劇を構築する。

 ここまで書いてみて失敗に気づく。ちなみにこの段落を書き始めたのは五月八日、原稿の依頼を受けてから実に半年近くが経とうとしている。先週はバンコクにいた。そうすると彼の地における自然と構築についてつい考えたくなってしまうが、これ以上の脱線と遅延は許されないので話を先に進めねばならない。この他にも提出が遅れている原稿や書類が幾つかあるせいでまるで多重債務者のように頭が働かなくなってきている。メール着信を報せる音が鳴るたびに怯えている。

 私は飴屋法水を対置したがゆえに鈴木忠志をほんらいの姿より少し歪めて見始めている(二項対立図式は便利だが必ずこういうことが起こる)。確かに利賀村の施設群は圧倒的だ。しかしその作品については、別に鈴木は何もないところから始めているわけではない。先の教室において彼は「ガラクタ」という言葉を多用した。自分の周囲にはガラクタが散らばっている、これを使って演劇をやるのだと。
 もちろんこれは彼一流の露悪的発言であって、要は歴史的遺産を手繰りながらものを作っているということだ。そういう意味では冒頭に示した私の実感、知りうるものだけを頼りにバラック小屋を作っているというポストモダ〜ンな姿勢は鈴木にもある。対自然としての構築ではなく、対歴史としてのそれを意識している。
 そもそも彼はあの磯崎新のマブダチなのだ。磯崎同様、素朴に巨匠への道を志すような性格ではないだろう(たとえ周囲にそれを望む声があったとしても)。ただ、「運動」とは意識的に距離を置いてきた磯崎に対し、鈴木は組織や施設の創設に積極的に尽力してきたようにも見える。

 なかなかうまく言い表わせないが強いて言葉にするなら、鈴木忠志にとって、環境作りを含めた制度の運営は理想に、作品作りにおいては美学に基づいているように思う。理想と美学は対立する、と普段から思っていたわけではないが、鈴木忠志について考えていたら実はそうなんじゃないかと気づいた。前者は絶えざる進歩や改革を要求するが、後者はまず何かを諦めることからしか生まれない。そして諦めることが一種の贅沢なのは確かだ。何かから離脱すること、更にいえば、離脱した先の居場所を前もって確保しておくことは、特権的な振る舞いだと思う。

 私は、演劇は滅びないと思っている。それどころか、力ある人々が根絶に努めたとしても死なないと思っている。だから、自分もまたその恩恵に与っているのにもかかわらず、保護や助成を訴える声に時々冷淡な態度をとってしまうことがある。しかし、「この演劇史」は守ろうとせねばいずれ途絶えるだろう。対外的には、鈴木忠志もまた「守る人」だが、その根っこは演劇の不滅を信じているようにも思える。飴屋法水はどう考えているんだろうか。動物に歴史への意識はない。

 利賀村でのスケジュールも吉祥寺のそれと大きく異なるわけではなかった。基本的には鈴木忠志を囲んでの対話の時間、そして数度の稽古見学。夕食時にはSCOTの皆さんの手による素晴らしい料理が振る舞われ舌鼓を打った。村の大きなイベント「そば祭り」も大いに楽しんだ。それ以外の余った時間は各自自由に過ごしていた。私は高く積もった雪の壁を削って地蔵のような、観音像のようなものを作った。今はもう溶けてあとかたもないだろう。

 さて利賀村の施設群は、SCOTの舞台作品は遺産なのか、それともガラクタなのか。
 作っちまったんだから、まあ、使ってやってくれよ、夕食後の歓談中、彼は笑いながら言った。それは確かにそうだ。バラックだろうが大伽藍だろうが、作っちまったんなら使ってやればいい。ひとたび形に現したものは当初の役割を果たした後にも残ってしまう。倉敷の美観地区に保存されてある土蔵群は今では土産物屋や博物館となり、蔵として使われているものはほとんどない。使い続けることがすなわち守ることになるのかどうか、ほんらいの目的とは違う使われ方をされることがその物にとって幸福なのかどうか、それはまだよくわからない。
 別に演劇なんてやりたいわけじゃねえんだ、と彼は笑い、続けてボソッと呟くように、ずっと遊んでたかったんだよ、と言った。その時の彼の眼は狂人のそれではなかった。

 滞在最後の晩に同じ卓を囲んで話す機会がついに訪れた。私は率直に、なんでそんなにマトモなんですか、と訊いてみたが、その先の会話を上手く続けることができなかった。「マトモ」の定義を問われ、これを「屈託の無さ」と説明してしまったせいだ。そんな風に言ってしまえば当然彼は、俺は屈託だらけだぞ、と返すに決まっているではないか。マトモさ、精製物、狂気といった語句同士の連関がきれいに組み立てられていなかったのが悔やまれる。
 それで今になってようやく上手い言い方を思い出したので、手遅れかも知れないがせっかくなので紹介しておく。藤枝静男の小説「木と虫と山」からの引用である。鈴木忠志は節くれだった一本の樹であった。

 ―だいたい章の心のなかには、古い大きな木の方が、なまなかの人間よりよっぽどチャンとした思想を持っている、という考えがある。
 厳密な定義は知らぬが、いま横行している思想などはただの受け売りの現象解釈で、そのときどきに通用するように案出された理屈にすぎない。現象解釈ならもともと不安定なものに決まってるから、ひとりひとりの頭のなかで変わるのが当然で、それを変節だの転向だのと云って責めるのは馬鹿気たことだと思っている。
 皇国思想でも共産主義革命思想でもいいが、それを信じ、それに全身を奪われたところで、現象そのものが変われば心は醒めざるを得ない。敗戦体験と云い安保体験と云う。それに挫折したからといって、見栄か外聞のように何時までもご大層に担ぎまわっているのは見苦しい。そんなものは、個人的に飲み込まれた営養あるいは毒であって、肉体を肥らせたり痩せさせたりするくらいのもので、精神自体をどうできるものでもない。
 章は、ある人の思想というのは、その人が変節や転向をどういう格好でやったか、やらなかったか、 または病苦や肉親の死をどういう身振りで通過したか、その肉体精神運動の総和だと思っている。 そして古い木にはそれが見事に表現されてマギレがないと考えているのであるー

 今は5月25日で、ブダペストにあるアートスペース「MÜSZI」に居てこれを書いている。当局からの補助金をカットされた市内のギャラリー/アートスペース運営者たちが集結し新たに立ち上げたこの場所は、ある意味で利賀村の正反対だとも言えるし、或いは、かつての利賀村の姿だとも言える。似たような成り立ちで生まれたが実績が評価され今では市の管轄となった別のスペースとは少しだけ軋轢があるとも聴く。政治はどこにでもある。だから政治性を売りにする意味など無いし、また政治性をネグることにも意味は無い。

 移動するたびに考えることが増えていき、文章にまとめるのも更に困難になっていく。このまま放っておくといつまで経っても書き上げることができないので、この辺でいったん中断し、編集部に送ってみようと思う。こんな適当なものが掲載されるかどうかはわからないが、少なくとも私のパソコン内では今後もこのテキストは書き継がれていくことになるだろう。

【筆者略歴】
危口統之(きぐち・のりゆき)
 悪魔のしるし主宰、演出家。1975年倉敷市生。横浜国立大学工学部建築学科卒。2010年フェスティバル/トーキョー公募プログラム参加。2011年トーキョーワンダーサイト「国内クリエーター制作交流プログラム」参加。2014年よりセゾン文化財団シニアフェロー。主な作品に「搬入プロジェクト」「悪魔としるし」など。
ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kiguchi-noriyuki/

【記録】
SCOT「演劇人のための鈴木教室
前半
吉祥寺シアター(2013年12月23-25日)
後半
富山県利賀芸術公園(2014年2月7日-10日)

(以下、前半の要項の主な部分)
○日時 2013年12月23日、24日、25日18:00-21:00
会場 吉祥寺シアター
○プログラム
・鈴木忠志が語る演劇論
<身体論>、<演出論>、<演劇の国際性>について
・「シンデレラ」の舞台稽古見学
12月26日に上演する「シンデレラ」の仕込み、舞台稽古を見学して、鈴木忠志の舞台ができる過程を知る
・ディスカッション
鈴木忠志と参加者とのQ&A
○対象
将来リーダーを目指す演劇人(演出家、制作者、俳優など)
○定員 30

○受講料 無料
○参加資格
・12月23日~25日のプログラムすべてに参加できること
・推薦人がいること(推薦人の規定は特になし)
○その他
今回の受講者の中で希望者は、2014年2月上旬に利賀で行う「鈴木教室・第2弾」(4泊5日を予定)に参加が可能。

助成:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)


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